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(第二部  制作中!)

作 菅野達三

​編 竹内健二

樺太男児物語

​はじめに

本文の作者である樺太生まれの菅野達三(樺太男児)は、編者の諸問題を考察する実践的な師匠であった。作者が長年に亘り広告チラシの裏に書き溜めた、作者の思い出や思い。時折の社会状況や時の感性を流れに沿ってまとめた。

​現況では不適切な用語や描写も多いが、原文への忠実性を守った。年月の表記がなされていないことが想像を大きく膨らませると思われた。

 編者追記:2008年に他界した20歳年上の作者とは、編者の故郷が標高1100

      メートルの僻地だった北軽井沢でありスズランと白樺とカラ松の

      植生とい自然環境が作者故郷樺太と類似していたことで意気   

      投合し、二十数年の多くの時間を供に遊んだ親友とし て、生き

      本質実践していた心の師匠として敬っている。

-第一部-

 俺はの奥地(地の果てサハリン)で、分教場の三男として生まれた。

​ 僻地のとなので産院が在るわけでなく、実家が近くに在るわけでも無し、必然的に親しい友人の家族が実家の代わりに、産前産後のリハビリに至るまでをつかさどるようになる。俺の女房も、その労力交換の成果で生まれた時から、一緒に居たことになっていたらしい。俺は彼女の家で生まれ、彼女は俺の家で生まれた。これ以上近い付き合いはこの世には無い。生まれながら他人ではない。民法による人間関係より優先する。これに比べると今の夫婦関係なぞ、ペーパードライバーのようなものである。

 それはさておき、一番上が男の子、二番目は女、次は男、次は女、そして五番目に俺が登場と相成る訳である。母親も小柄な都会人なので、お産は大変だったようだ。

学校の先生の奥さん、僻地ではエリートである。百姓の女房なら生まれるまで働いているので、畠でお産も珍しくないのだが、なにせエリートなので俺が育ち過ぎてひどかったらしい。母乳は無くオーストラリアから輸入の粉乳で育った。近所に牛はいたはずなのに、なにせ文明人だから不潔なもの(とにかく非衛生的であることは確か。)は飲ませられなかったらしい。親の保護下にあるし、まだ目が見えないのだから何を飲まされようと何にも言えた義理じゃあない。今にして思えば早く免疫を作っておいた方が良いように思うが、今なお健在なのだから文句は言えない。

 父母は同じ系列のミッションスクールの出身であった。明治末期のこと、父は伊達藩の五十家でピカピカの士族であり、内容に関係なく格調は高かった。母は仙台の花街の出身で、親父は仙台火消しの纏持ちで、置屋の親父。姉は皆芸者(母はバッチであった。)である。当時のことなので当然なさぬ仲で、俗に言う駆け落ちと相成る訳であるが、東京の生活は大正時代の不況で楽では無かったらしい。

 そして北海道に新天地を求めて渡り、そこよりももっと樺太の方が楽をして暮らせると思って樺太に渡ったようである。だいたい日本のインテリは労働には向いていないが、なぜか皆フロンティアに憧れる。原始時代の血が呼ぶのかもしれない。しかし、山から保護して二・三代繁殖した動物を、山に連れていき放すようなものだから、全く使いものにならない。素質は有るのだから良いはずなのだが。

 最初の出発点は非常に重要で、都会人は頭で考えて行動するが、原始人は生活に必要なことは考えずともできる。この差がフロンティアの過程では、生死を分けるくらい重要なことなのだ。そう言うことで、親父は大きな譲歩をして教員になったらしい。夢と現実の差である。だが、夢が実現しなかった訳ではない。蒔いた種は、自然にフロンティアの中で自然児として育って来たのである。兄弟五人のうち、内地の雰囲気を引きずって四人が生まれ、俺だけ、家族が環境にやや適合した頃に生まれ幼年期を迎えた。本能で環境に適合したそれが俺である。

 言葉はどの程度話せたかわからないが断片的な記憶はある。俺は住まいの近くで(分教場なので、教室と住まいは一緒なのである。湯沸かし場を通って教室とつながっていて、母は女の子に裁縫を教え、親父は六才~十四才までを一緒に教えていた。)遊んでいたと思われる。俺の最初の頃の自然児との接点である。何も習った訳ではない。誰彼の後を追いかけて歩いた。誰も相手にしてくれないのである。誰彼等にも或る種の意識があって、小さい子供は怪我とか殺すとかは駄目だ位のことはきちんと知っている。保護の責任、今様に言えばそうになる。つまり冬が長い僻地では、夏の作業は一冬の家族の命を支えるので(家族を少なくすればその分楽なのに、子供の数は決して減らない。しかし、最終的に頭数で成功するケースがまれではない。)上の子は下の子の面倒を見る。至極当たり前のことである。まだ自分が遊びたい年頃なので、下の子のことは管理程度の範囲を出ない。こちらもその範囲で少しづつそのテリトリーを拡げながら遊ぶ。分教場の周りにはフェンスがあり門柱があり、それに樺太町立何々小学校何々分校と書かれていたと思う。記憶にあるのは、大きな蝦夷松の板に大きな字が書かれ、風雨にさらされて墨の痕が浮き彫りのようになっていたようだった。先の方は、丸太の杭を打ち込んで一番上の木口に笠木を打ち付け、振れ止めと言うか五十センチ置き位に樽木を打ちつけてある。幼児には登れないが先輩諸氏には丁度良い階段になるのである。その前が広い苗園だったように覚えている。後で親から聞いた部分も多少あるが、記憶に残っている落葉松の苗である。(後々の知識なのだが、樺太では落葉松とかドイツ唐檜の外、植林の記憶が無い。)俺が一緒だと、所かまわずふんずけるし、珍しければ何でも引き抜くし、面倒だから柵の上に止まらせて、少々泣いてもほっておかれたもんだ。待つことを教えられた。相当の期間いろいろな形で待つことを教えられた。

 

 

  その頃の或る夏の日(幼児の目からは遠くに見られた。)金ボタンの、格好の良い日焼けした青年と言うより大人達が歩いてきた。そして当然のことだが邑には稀な出来事である。先輩諸氏は仕事をほったらかして彼等の見物に集まった。俺も柵から下ろされて同行した。今でも脳裏にこびり付いている。素敵だったのである。教室に入って三人でオルガンを弾き打ち興じていた。越中島の高等商船学校の三年生で、卒業を前に最後の夏休みを樺太のまた北に近い所まで旅して来たのである。青春の夢を一杯秘めて。

 我が家ではその日誰かの誕生日だった。訪れる人とて少ない長い夏の夜(サハリンの夏は白夜だ。)しかも懐かしい都会の匂いを背負った連中。山の中なので何にも無いが、五目寿司と、デザートは寒天にバナナを入れその上に卵の白身の泡立てたものをのせ紅を少し入れて色を付け固めたお菓子。話は尽きることは無かった。遠洋航海・赤道祭り・大成丸の甲板磨き。ヤシの実で作ったやつで磨く。一列横隊で磨くのである。それも、いつも何か楽しいことを発見するやつがいるもので、足にブラシを履いてハーモニカに合わせたチャールストンを踊る。曲はホットジャズ。現代でもナウいスタイルだ。

 ところで彼等は旅費が乏しくなって、アルバイトに苗園の人夫を志願して来たのである。直接話をする前に分教場が目に入り、先生から紹介してもらうつもりだった。

文句のある筈が無い。宿舎は我が家、部屋は教室に薄縁を敷いてそこが寝床だ。うれしかった。家族が急に一杯に増えるのだから。彼等は休み中泊まっていた。帰りの旅費が貯まるまで働いて、その他の時間は遊んでいた。探検に行ったり、泳いだり。

学校の裏に沼があった。湿地帯なので雪解け水の頃に流れが変に取り残されたものだろう。ハンの木・水芭蕉・キトビル(行者大蒜)・ヤチブキ(春になると雪の間に葉と一緒に花を付ける一番早く取れる山菜で、ゆでてあく水に浸け苦みを取っておひたしにする。)等が絵のように映えている。水は茶褐色のような気がした。たぶん植物の根の色なのかもしれない。野生の熊が姥百合の根を掘りに来る程度で、互いにチラッと見るだけでスーと消える。危険は無い。後はトゲ魚がいて握ると刺さる。当然のこと。そこに筏を浮かべて遊ばせてもらった。一度だけだと思うが、いつも陸の上から羨ましく見ていた俺は、何度も乗せてもらったような満足感で今でも忘れられない。鷲尾さん早川さん二人は、大阪商船の航海士になり戦時中に亡くなった。北川さんは運輸省に入り、日本丸の船長を経て退職した。今でも存命と聞くが相当な高齢のはずである。

 俺達のもとを去った彼等から、絵はがきが年に一度か二度来る。真冬にサイパンから夏服の写真とか、パナマ、シドニーと世界各国から便りが来る。その度に地球儀を廻して国々の位置を見ては夢を膨らませたのである。彼等がいつ宝沢を去っていったかは記憶にない。多分昼寝の時間だったろう。

 一歳半から四歳半位までがここにいたと思うが、今はそのことをはっきり教えてくれる親もいない。遠い郷愁なのでこれしか言えない。この頃の母の顔すら定かでない。平和な生活だったのだろう。刺激的なこと以外は、何千年の歴史と同じように時は流れ、断片的で不正確な記憶が残るのみである。(中国残留孤児の方々のことも、誰かが覚えていてあげなければどうにもならない。骨身にしみる。)

引っ越し

 春の転勤時期になり家族で引っ越しである。馬そりに乗せられコタツを入れて、馬の鈴の音を聞きながらの引っ越しである。子供心に何か別の所へ行くような気がしていた。不安だった。広野の真っ直中に駅停があった。大きなトドマツが一本あった。クリスマスツリーのような木だった。雪が降っているのも覚えているが、その他どうゆう交通手段で時の転勤先の瑞穂に着いたか全く覚えていない。

 最初の瑞穂での印象は、今まで住んでいた所が何となく棚の中が俺のテリトリーだったので、新しくたどり着いた所は見渡す限り広々としていたということだ。高台から谷間を見るのだから、子供には大人の見たそれとは別の大きさで感じたのだろう。その谷の下り口の道路端で太陽に向かって小便をした。すごく良い気持ちだった。寝小便だった。これが寝小便の最後の記憶である。瑞穂は前任地とは違い清水村瑞穂という字の通り水の豊富な土地の肥えた素敵な所だった。

 谷間に集落を作るのはそれなりの理由があったと思われる。冬が厳しいから風を避けて低地にいる。そんな単純なものではない。我が家は都会的発想で台地に五ヘクタール(15,000坪)を求めて家を建てた。スズランがいっぱい咲いていて、そこだけはまさしくおとぎの国の風景であった。そんな土地が誰も所有権無しで残っているのは不思議である。

 サハリンでは、五ヘクタール単位で四角く図面の上で地形など関係なく分けられていて、申し込みのない開いている地番は誰でも無条件で貰えた。ただし所有権が発生する為には、五年以内に開墾を終了しなければならない。成功検査を受けられないものは権利は失われてジャコ(住居のない流れ者を言う。ジャコー鹿からきている。)となる。ずいぶん厳しい話だが、それは表面で、あとは適当なもので、立木を伐採して製紙工場に売り、雪の降る頃に成功検査をする方もされる方も心得たもので、酒と肴の用意がされ開墾よりも先になのかとも思われる位ことは巧くは運ぶ。小屋(家なんて代物ではない)の廻りをちっらと見て検査はOKである。へたばるまで飲んで第一期工事はつつがなく終わり所有権も確立され(敗戦で喪失した)、さらにまた五ヘクタールに第二期工事に着手するのである。

 かくして我が家は立木は一本も無く切り払われて、スズランの一杯咲く(痩せ地に咲く花)に家を建てたのである。都会人には(東京を出て六年目)夢のようなお話である。ロマンで一杯だ。しかしロマンを食べるわけにはいかないのも現実なのだ。

何も無い野原で食物を作り(しかも短い夏の間)塩を買う。布(被覆とは出来上がったもの)、焼酎、現金で買わなければやっていけないので前に述べたように、あざやかな取引というか、理解というか、生きるためにまた開拓させるために黙認せざるを得ない、日本政府の行政の行き届かないテリトリーである。要するに我が家の土地は食べ残しである。月給取りインテリの洞察力の限界なのである。それが少なくても自営業とサラリーマンとの差かもしれない。一つ一つの出来事をきちんと理由を付けずに、正確に判断してただちに行動しなければならない。谷間に集落があるのも立派な理由があるのである。

​穂積

 瑞穂はサハリン南部の農業地で留多加川という川にそって張り付いている村で、下流の大泊湾に至るまで五十キロと思われる大きな川である。その川にそそぐ支流の大工の沢をはさんで集落があり部落の中心になっていた。高い土地に点在する農業者二十~三十ヘクタール、しかも良い土地を求めてそれぞれ居着いているのだから大変である。遠い所の人は十五キロもある。平地にいる連中は生活も安定した農民が多く。奥地にいる連中は国有林を冬の間伐採して雪融水を利用して河口にある製紙工場に売る。営林署の役人が春に来る頃には勝負は終わりである。もちろん子供の義務教育なんか出来るわけもない。

 集落には雑貨や一軒、トーフ屋、鍛冶屋、蹄鉄屋、製材、後家屋(あいまいや)、旅人宿、製材屋各一軒。必要最小限である。多分製材屋が先に企業化されたと思われる。初期の小屋は斧で削って組み合わせるだけの粗末なものであったし、その頃でも盗伐の連中はその手の小屋だった。永住の意志のないどうしようもない奴等が盗伐の奴等である。畑もでき家畜も増え居住性も要求されてくると、水は動力源、川は運搬路、作業場はそのすぐそばになければならない。製材が初まると建築用雑材料が必要だ。各々自分向きに応じて独立していったのだろう。

 俺が最初に住んだ仮り住居は宿屋兼製材屋の家であった。大工の沢の水を五メートル程度の落差を付けて導入し、上流に堰を作り溝を掘って小川を作り、最終導入口(木製)迄約二百メートルもあったろうか、水車の半径二メートル位はあり、一メートル巾の木のトヨが三十度の角度で流速(落差で加速)で水車を回すのである。五十メートル上流に貯水池を作り、渇水期に備えって堰を設けて水位を増減できるように、十センチ位の板を何枚も差し込んであった。生活の知恵である。学術的に見ても立派なものであった。

 丸太を引き割る音、身震いが出るようだった。いつもそばに立ってあきずに見ていたものである。今同じことを再現しようとして、一度も手を出してみない製材をやって見て、時代は五十年過ぎても一歩もひけを取らないことがしみじみと感じられた。今では電動である。俺の山は電気がないので、百二十五馬力のジーゼルエンジンであるが、それでもパワーが足りないし回転ムラがでる。昔のそれはバラつきはないし、皆手作りでエネルギーは無限である。木材は盗材で、エネルギーはただ。植民地の建設はこのようにして力強く生きてきたのである。理屈では文化人は理解できるが、自分でそれをやれと言われたとしても出来るやつがいない。必要がないとか、時間がないとか一杯理屈を並べて出来ないのである。そんなものは原因でなくやらないだけのことである。

 その集落の連中はそんなこととは関係なく、ごく普通なかんじでそれをやっているのである。蹄鉄を打つ鍛冶屋も自分の靴を直すように馬の蹄鉄を足に合わせて作り、爪を切り焼いた鉄をジーと音を立てて爪になじませ水で冷やして打ちつけるのである。鍛冶屋の兄貴は親切ないい人だった。

 或るとき、鍛冶屋に遊びに行っていた時の出来事である。首に麻縄をつけた生まれて三ヶ月位の犬がいた。製材屋のこせがれに俺より二つ年下の子がいて、そいつがしつこく子犬を追い回していた。しばらくたって、その子が火のつくように泣き出し、犬は死にそうな声で鳴いている。こせがれが犬の首輪に指をかけたとき子犬が一廻りしたのである。苦しいから何回も廻る、指が紫色になってしまった。母親が犬をぶっ殺せと叫んでいた。鍛冶屋のあんちゃんがそんなことは無頓着に真っ青な顔になって鋏で紐を切り大事にいたらずに済んだ。その後二,三年経って兄に恋人が出来、兄はプロポーズしたが彼女の家族に反対されなさぬ仲となった。それまでは我慢できたのだと思うが侮辱を受けたらしい。(兄弟に白痴がいた。)限界を越えた彼は一家六人皆殺しにして自分も命を絶った。あんな優しい彼が?しかしその一途さが彼をそうさせた。やられた方には逆に思いやりと優しさが足りなかったのだろうと。真情に生きる者の危険なところかも知れない。やり場のない感情を自分で解決したのかも。そして自分で代償をはらって、人生の収支は合ったのかも知れない。それがサハリンだ。サハリンによらず行政の及ばない地域の実情なのかも知れない。

 誰も手を貸してはくれない。互助協力の単純なルールに、助け合って生活する。はみ出した奴を面倒を見る余裕はない。適当にジャコを踏む(流れて歩くこと)か自殺するしかないのである。

流送

 サハリンのその頃のことで、自分も出来たらこれをやってみたいことの内に、流送がある。やってみたいというよりそれになりたかった。運搬機関のないサハリンは唯一の動脈は川である。

 長い夏が終わって(サハリンは緯度が高いので時差が三時間近くなので、夏は夜があまりない白夜に近い)怠け者は小屋にこもってバクチと酒と繁殖に励み、働き者は伐採事業に働きに出る。樺工と通称呼ばれている王子製紙の工場は殆ど主な川の河口に位置している。山奥で伐採された木は土そりで川の側まで運ばれる。簡単な小道を作り、細い生木を道の進行方向と直角に並べその上を橇に丸太を積んで引っ張るのである。馬の場合は長い距離を引くときに使われ、急斜面を馬で引けるところまで引き、そこまで出すのは人力によるのである。これは夏の場合で、一番良い季節は冬で雪の上を橇で引くのである。これは世界の何処に行っても使われる方法であるが、前者の方法は働き者の考え出したものである。

 伐採された丸太(丸太針葉樹で径が約三十~六十センチ位が普通のサイズ)は、川端まで運ばれるとその材料を使って仮設のダムを造る。頭の良い奴が必ず一人はいるものであるがこれはヒット作である。何十キロもあるところを一息に流すのだが、水があってはダム工事が出来ない。何故なら、現代と違って機械らしいものは何もないのだから。そこで寒の頃に組み合わせた丸太に、雪と小川の水でダムを造る。コンクリートに例えれば、速乾性のようなもので水をぶっかけるとすぐ凍る。そして春の雪解けを待つのである。サハリンの春は四月の半ば、半月の内に一度に解ける。一夜で、各河川は普段とは想像に絶する水量になる。交通は完全に麻痺する。渡し船はケーブルを使ったゴンドラに変わり、川面は大きな産業運搬大動脈に変わる。ダムの貯水量満タン、ダムを支えるキーの丸太を突っ放す。積み木を崩すように瞬時に崩れ落ちる。各河川から材木が流れ出してくる。一本が何かの拍子でつかえると、後から後から材木の山が出来てしまう。

 白井組、大花組と材木の仲買が共同で流送人夫を出し合い(自分の買った木の木口に烙印を押す)河口まで丸太に乗って一ヶ月(それくらいと思われる)の旅に出る。その人夫の作業を流送と略して呼ぶ。各業者ごとではなく共同で組を作り、その中に頭、小頭、若い衆と階級があり作業の腕がその地位を決める。半纏の襟の部分が現在の作業服の形をしており、それがコールテンで出来ていて白く小頭と染抜いている。これが若い血の気の多い、いなせの若者の象徴なのだ。金もたっぷり稼ぐしきっぷもいい、一日中丸太を竹竿の先につけたやつで奔流に突き出したりたり、流れている丸太の上に乗って向こう側に行ったり自由自在である。落ちれば助からない。夕方早めに天幕を張り野営をする。酒を飲み女とふざけ、今日一日を忘れるまで(くだんの後家さん達も同行するのである。)男だけで何日もほっておいたら、殺伐となって事故が絶えないと思う。来る日も来る日も休みはないし、洪水の水が引かない内に河口まで行かなければならないのだからしかたがない。一日休みを取ってとか、調子が悪いなどと行っている訳にはいかない。次の宿の宿営地に行くまでは、バラした天幕は組み立てないから寝ている訳にもいかない。酒を飲む、飯を食う、働く、至極当然のことである。セックスも同じパターンでやっている。一丁のテントの中で人前でやるか、外で立ったままでやるかの差である。嬌声につられてみにいった。もろに見た。立木にもたれかかったのを後ろからやっている。まだ薄暗い河原でである。馬と同じだなあと思った。天幕も運搬の関係(筏が使える時期でない)で馬車で毎日下流へと行くので川に近い道路傍になるのでやむを得ないし、それが好きならしかたがないが、とにかく命がけ(彼らはそう思っていない)が戦争と同じことで、生きている証に自分を確かめる。生きて行くための最小公約数なのか?人間の性か?秋アジが卵を生みに故郷へ帰ってくるようなものだ。それでフルコースだ。どれが欠けても駄目になる。

 地下足袋の底がサッシ子になって(帆の布を綿線糸で刺してある)になっているのを履き、ニッカボッカーのズボンに半纏を引っかけてすたすたとつま先立ちに歩く姿は木枯紋二郎の姿に合い通ずるところがある。そのヤクザな姿にとても憧れたものである。

​生きる

 とにかく植民地のサハリンの環境そのものは、自然で静かなたたずまいを見せているが、厳しい現実が静かさと裏腹にあるので、その時々に適応していかなければならない。急いでも駄目、遅れても駄目なのである。人生、斜めに見てすねている訳にはいかない。

 内地を食いつめた奴、一攫千金をねらう奴、漁業、林業、石炭、何でも早い者勝ち、全ての条件に打ち勝った者だけの世界。学歴も経験も何も批判されないが、その時の才能と力と経験のみが評価される。今の社会には隣にもたれかかる部分が大きく占めているために、本人そのものの評価が発掘されにくいし、学歴と理論が優先される。しかし理論は実験以外にそれを立証することは出来ないし、本人の才能も魚に水が必要なように、自分を生かせる背景とチャンスが必要になる。それがサハリンには無限にあった。

 タッチが先、考えるのは行動しながらである。その守りで止めることも、同じく行動を止めればよい。考えることは必要であるが実行を伴わない考えは休むと同じ、古事によく言われるがあまり身近に感じていない。(下手な考え休むに似たり。)会議会議、皆自分達が考えていると錯覚しているだけでテーマも決まり、結果も伴っていることを考えさせられて洗脳されているだけだ。大きな癌細胞の中の一つの細胞に過ぎない。自然の細胞の中の単細胞になることが如何に多難であるがシンプルなことか!生きるというテーマは最初から決まっている。学問とか経験はその課程の中で社会人となるまでに修了する。幼児の頃から青年までにである。高等小学校卒業十六才、立派な大人である。

 生きるというテーマは生きとし生きる者の共通のテーマである。生き抜くことが出来ればそれが大人であり、その他のことはその手段であって目標でもなく課題でもない。現代に生活する人間の悲劇はその錯覚から生まれる。生きることの意義を追求して次の世代に伝えなければ。生と死の不可分性についてもである。死はすぐ隣にある。

死の隣(1)

 俺も子供の頃死を感じたことが二,三回あるが、その一つに、春三月~四月にかけて野生動物の生まれる時期(特に鳥類)である。鷹、カラス等が主で深い山奥の大木の上である。

 学友がその話をする。平日は自分と一緒なのだから彼の親の受け売りなんだろうが、そこは生活基盤の違いで教員(都会人)の「せがれ」にはそれがわからない。我が家の貸家にいる山子(伐採人夫)にしつこく聞いて、カラスの巣を見つけたらすぐ知らせるように頼み、我が家のおやつをお袋に内緒でかっぱらって代償を支払った。

そして報告はすぐあった。早速土曜日の午後、カバンを玄関に放り込んで雪道をくだんの場所に行った。(人家から六キロ位のところと思う。)太陽は燦々と照りコバルト色の空に白い雲、雪に松の緑、早く現地にたどり着きたい子供の一念の中でもそんなことが記憶にある。

 確かにカラスの巣はあった。立木(蝦夷松)の下から十メートル位のところに松葉が折り重なったように見える。カラスが騒いでいる。太い木なので両腕ではとても登れないし下枝まで三メートルはあるし、しかたないので枝木を拾って来て、くだんの大木に立て掛け梯子の代わりにして下枝に飛び付いてよじ登って行った。巣はあった。松の小枝の上に小枝を重ね、草の枯れたやつや鳥の羽、つなぎに馬の尾の毛等を使ってまるで編んだように、その中にグリーンがかった大理石を磨いて作った卵が四つ。さわってみた。暖かかった。親鳥が抱いていたのだろう。けたたましく鳴きながら俺を攻撃して来る。可哀想になってになって引き上げることにして下りて来た。

登るより楽に思われた。最後に下枝の部分、後三メートルもうこれで終わり帰るだけだ。目的は達成された。雛がかえった頃取りに来ようと希望に胸を膨らませて、下枝から飛び降りた。その時だ、春の暖かい日差しを受けた雪がザラメ状になっていて、夜は表面だけが凍っていて午後にザラメ雪になり段々溶けて行くのだが、三メートルも上から飛び降りたんだからたまらない。首まで棒きれのように刺さってしまった。

もがいてももがいても脱出出来ない。廻りには誰もいない。夕日は早足に沈んで行く。泣いたけれど誰もいない。手で廻りを掘って少しずつ体を動かしてみたが駄目だ。体は冷えてくるし軽装である。後は眠くなって凍死するだけだ。日も暮れかかったその時、人の声が聞こえた。「助けてくれ」と叫んだ。彼等(くだんの山子)は造作もなく俺をゴボー抜きにして「今日の雪はやわらかいから飛び降りたら駄目だ。」とボソボソ言って連れて帰ってくれ、一言も告げ口をされなかった。俺は、死がそんなに簡単な状況の中にあるとは思わなかったが、寝床に入ってから怖くて泣いて小さくなっていた。一夜開けて俺は恐ろしさはけろりと忘れて、経験した知識だけが残った。

死の隣(2)

 二度目は、その後親の転勤で西海岸の漁村に移った。少年時代から思春期の初めの頃迄そこで暮らした。転勤は年度末である。四月の初めは「ニシン」の漁期だった。犬も多い、人も多い。今までは遠くに「ポツーン」としかない人家と一日に何人も通らない静かなところから、急に何処にでも人がいる(特に出稼ぎ人夫通称ヤンシュー)そして大部分がアイヌ人である。その他ロシア人、朝鮮人で日本人(大差はない)は殆どいないのだから、生活の基本も考え方も全然異なるのである。日本人は農耕民族で、アイヌ人は狩猟民族の違いがまざまざと判る。例えばいぬがいっぱいいる、労役用兼毛皮用、食用である。可愛がっているのだが、考え方と用途が違うのである。見た目の綺麗な見所は危険なのである。

 長い冬の間は、新鮮な生の肉を食べないとビタミン不足になって壊血病になる。徳川時代の蝦夷警備兵の半分は、米味噌主体で冬越しし壊血病で死んだ。食生活が環境に適合しないのであるし、その土地を知らないのである。サハリンでは冬野菜は一片もない。流通機構もない。現地人はカリブーを生で食う。カリブーは苔を食べて生きる。人間は苔を食べるわけにはいかない、トッカリを食う。トッカリは、シケが来ようが氷が張ろうが魚を食って生きている。それを捕って、食う米を炊いて食べたのでは駄目なのである。農耕民族には出来ないことである。殺すことも生活の一部なのである。農耕民族は、空腹の時「わらび」の根をたたいて水でさらし澱粉を採ることを考え、狩猟民族は、その何かを食っているやつを捕らえて食うことを考える。日本人が占領して文化を持ち込んだときに、彼らは壊滅した。家を建て米のメシを主食にした。生肉をむしゃぶり食うのを野蛮として調理を教えた。その結果三・四十年の間に皆結核と脚気とトラコーマで滅亡の一途をたどった。文化の代償である。俺はその接点にひょいっと投げ込まれたわけだが、自分としてみれば単純に山から海にきて珍しさで一杯で、変化など難しいことは一切考えずにただちに順応した。その日のうちに悪友二人を作った。

​ 最初親父と二人で転勤先に行ったので、炊事は二人でやらなければならなかったし、親父が出かけると俺一人(小学校五年)で留守番である。ただし電気はあるし汽車も通っている。(俺は五年生にして初めて電気と汽車に出会った)ので、寂しいどころか明日また新しい体験を想像して胸を躍らせていた。

小遣いを一円もらっていた。(キャラメル五銭の頃)悪友にカステラを買って、念達も終わり遊びの仲間入りをした。最初彼らも日課があって炊事用の薪集めをするのである。流木拾いである。ロシア人のハーフが「あきら」で、朝鮮人のハーフが「かおる」である。二人は出来る限りの知識を俺に教え始めた。舟の漕ぎ方・定置網の仕組み・釣りの要領・餌の捕り方・エビのいる場所・よくも知っていると思うほど知っている。

 魚を買うために船付き場にいった。誰も相手にしてくれない。皆忙しく働いている。仕方ないから見物を決め込んで観察していた。働いている人は主たる作業員以外は無料奉仕で、適当に働いて好きなだけ魚を持って行くのである。俺もすぐそれを納得した。毎度魚の買い出しは俺の役目だったので、代金は適当にもっらって魚は例の手で入手するのである。子供なので知恵は浅い。大小の調整とか、品質の内容とか関係なく十銭均一でついに露見となるが、暫くの間は我々の資金源として結構な収入である。三人で他人の定置網を挙げて、よりよい商品の供給に励んだ。そしておやつを買って遊んだ。日課は、共同作業で短時間でやるからすぐ終わる。資金源も安定していたので、毎日山学校に励んだ。

 そんなある日、薪を拾うのは大変だから、難破船の木材を盗りに行こうということになった。樺太の西海岸は遠浅になっているのでシケると浅瀬に(百メートル位沖)波がぶつかって危険な状態なのである。そこに難破船があった。舟を無断借用して、湾を出て外海から難破船に乗り込んだ。ノコで手摺りを切り落とす。山育ちの俺の出番だ。戦利品は暫く何もしなくとも間に合う位になった。舟に満載した。その他に紐で船尾にも引行した。帰路についた。船足は遅い。そよ風が沖に向かって吹いている。(西海岸では、東風を「やませ」といって漁師も恐れている)俺は全然感じていなかったが、彼らは不安そうな顔をしていた。が、まだ戦利品を捨てる気持迄にはなっていなかった。波が船縁を打ち始めていた。「水を汲み出せよ。」とあきらが言った。かおるも舟を漕いでいる。あいているのは俺だけである、当然のことであり水を汲み出した。後から後から入ってくる。よく見ると船縁からでなく、喫水線のあたりからである。「あきら、この舟水が漏っているぞ。」俺はゾオーッとして叫んだ。カチカチ山の泥船で俺は泳げない。泳げても水温が低いし、「あか船だ。」とかおるが言った。あか船とは水漏れのする船のことを言うらしい。無断借用の舟は、水漏れがするので丘にあげて乾燥して目地(緋なわ)の詰め替えのために置いてあったものらいかった。波がしぶきを立て始めてきた。戦利品は捨てた。それでも船首を波に向けるだけで精一杯である。「助けてくれ。」かおるが叫ぶ。聞こえるはずもない。誰かが発見してくれる迄沈まずに居る以外に手はない。必死に水を汲んだ。腰掛けのミカン箱で、箱も壊れた。三人で手でかいだ。大分沖まで流されていた。岸を黒い点の用に誰かが舟を漕いでくるのが見えた。「父ちゃん。」あきらが言った。助かった、彼は自分の父を信じていた。父ちゃんが来れば大丈夫だ。我々も、どんなに彼の父の姿をたくましく見えたことか、涙が流れた。潮水で濡れた頬に温かく流れるのを感じた。彼は自分の船に我々を乗せた。そして泥船を自分の船に繋いだ。彼の力でも漕いでは帰れないが、沈まないようにすることは出来た。そして沖を通った汽船が、大きく見えたが十トン位の船かも知れない。その船が助けに来てロープを投げてくれた。彼らも一生懸命だった。湾内の砂浜に全力で乗り上げて俺達を送り届けると、さもないように「ゴースターン」と叫んでエンジンを満開にしてバックし目的地(今のネベリスク)へ向かった。

 「駄目でないか。」とあきらの父ちゃんが片言で言った。しでかしたことを叱るよりも無事であったこと、彼を含めて幸運であったことを喜んでいた。これが二回目の死の出会いであった。それ以来東風が吹くとすぐ安全地帯まで退避したものである。

海で生きる者の、自然に対する「おそれ、尊敬」は、こうして生まれる。甘く見てはいけない。いつもそれに正面から正しい姿で見なければいけない。自然には例外も妥協も無いが、深い恵みの母でもある。それが自然の姿でもある。誰にも犯してはならない神の領域なのだ。

摂理 

 ニシンがくる頃から海は静かになってくる。油を流したような凪である。自分の顔が写る、海の底も見える。ウニ・昆布・根にいる蛸・魚が群をなして通過する。ニシンだ。縦網魚で岸から沖まで二千メートルもあろうか。網を張り末端の沖に定置網がある。ネズミ取りの大きいやつを左右両側に取り付けてある。三十メートル角くらいか?魚群が入ってくると、海の色が変わってくる。その色によって量を感じ取り入り口を閉じて網をたぐる。大きな「たも」で魚をすくい上げ船に積み込み岸へ運ぶ。夜も昼もなしに作業は続く。岸では背負子に魚を入れ歩み板を渡って岸へあげる。ゆっくりけだるく何時までも続く、眠いのである。メシは何時でも食べられるようにしてあり新鮮な魚をぶち込んだ味噌汁にメシだけだ。沖からニシンを積んだ船がまた帰ってくる。「オラオーシュオ」船頭がリードを歌う。「アラドッコイショ、オシュオ」と「やんしゅう」が歌う。「オッシュオ」のときに櫂を漕ぐ、七人で船頭が舵を取り両脇三人ずつで漕ぐ、赤い夕日を背にして帰ってくる。(西海岸は、夕日は必ず背中になる。)生臭い魚の臭いを忘れて、遠い舟歌とその光景に見とれたものだ。筆舌には言い表せないほどの素敵な一巻の詩だ。信じられないほど静かである。

 その秋同じ場所で、秋あじ漁の帰り一隻の船が岩にぶつかって難破して、七人全部死んだ。十分知っているはずなのに環境が激しすぎるのかも。夏の間楽しく遊んだ海岸も悲嘆の涙に濡れた。アイヌの泣き婆の泣声がひとしを哀愁をかき立て少しでも神に哀れみを乞おうとする。神の怒りにふれた者達を神に許しを乞うのである。近代人は笑うであろう、しかし誰も自分を自分で救うことは出来ない。神のみに出来ることなのであると信じている彼らが、ある意味で幸せなのではないだろうか。生きることを全うして神に召される。完璧な一生ではないのかと。

 必要以上の保護・産業の発展・医療の発展すべてが本来の目的を逸脱しているのではないか、人口の増加もその内の一つであろう。明治革命当時の日本の人口は三千万人である。自然分娩と自然死を繰り返したならば人口も増えず、極論ではあるが戦争も必要なかったかも知れない。現在一億二千万人、絶対量が足りないのである。そのことが平和も自然も破壊しているのではないだろうか。産児制限をすれば高齢化が進む。さらに医学が進歩すれば人口増加を助長するだけだ。必要最小限に科学の進歩を止めなければ、自然に帰ることは永久にないし、現在の中でどうすればよいというのか?他国を侵害し他民族を殺さなければ自分は生き残れない、地球のバランスが崩れている。しかも、何故かを知らない。俺としても詳しくは知らないが、少なくとも自分の知る範囲で、はっきりと感じ取れる足音が俺の背中に手が届くまで来ている。

[第一部 終わり]

 

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